シナリオは「予定調和」だと言うけれど
「ストーリー」の基本パターンは、世界中探しても何百通りもあるわけではなく、せいぜい数十通りです。そのどれをとっても、読者、視聴者は、その後の展開に予想がついてしまうことでしょう。でも、人間社会におけるストーリーとは、大方そういうものであり、人の営みとはそういうものではないでしょうか。
予定調和はつまらない?
それは大きな間違いです。むしろ予定調和がきちんと描かれていないことで起こるのが「シラケル=つまらない」ことです。昨今は「ストーリーあり映像」でも、人間の営みをちゃんと洞察していない、ちゃんと演出していない作品が多いと感じます。視聴者はそうした映像ばかり見せられているから、多くのリアイリティ至上の若い世代が、「ストーリー」というもの自体を、作為=リアリティがない、ダサいコトと考えているかも知れません。
予定調和ストーリーは簡単には創れないものです。
だからこそ価値があるのではないでしょうか?
一昨日、山田洋次監督原作のドラマを観ていて、そう思いました。
ドキュメンタリもやっぱり創作
ということはみんな思っています。ところで、一般的にはまったく別の仕事と思われていると思いますが、テレビ番組で「報道」に属するドキュメンタリ番組をつくる仕事と、我々B2B映像制作業者が広告宣伝や広報としてドキュメンタリタッチな映像をつくる仕事は、本質においては同一と僕は思っています。どっちも、結局は作り手の主張を表現する仕事だから。「事実だけを伝える映像」なんて存在しません。
ドキュメンタリは事実を再構成して創作する、ひとつの「解釈」です。
論理的に辻褄を合わせるとドキュメンタリができあがる
「事実」というのは事実であるけれども、それを捉える角度は無数にあり、角度によって意味が異なるものとなる。それをさらに恣意的に切り取り、並び替え、論理的に辻褄を合わせるとドキュメンタリができあがります。
ちょっと乱暴ですが、それが事実です。さらに事実の角度を別な角度に変え、切り取り所を替え、順番を入れ替えると、それもまた別の辻褄のあった解釈となり、あたかも真実のように人々に影響を与えるものとなります。
どうして小難しいのか
世間から見ると「斜に構えた、小難しいやつ」と思われることが多い、僕たち映像制作人間。それは、実写(事実としての撮影素材)を編集して映像作品を作り上げる仕事をする僕たちは、いつも「事実」の解釈をこねくり回しながら、その使い方の可能性を考えています。頭の中はいつも思索の中。人の意見にも、ただちに逆の論理をぶつけたくなる習性。これは嫌われます、素直じゃないと。
でもテレビや新聞でよく、映画監督がコメントや評論を求められ、その意見がありがたがられるのは、この性格のせいじゃないかと思います。
断定的なもの言いができる人
僕ら映像人間は逆に、物事を即座に断定する物言いをされると、「ほんとかあ?」と思ってしまいます。僕らはものごとの多面性を利用して論理を組み立てて、人を説得するのが仕事ですから、簡単に言えば「モノは言いよう」以外の何物でもないと思っています。
でややこしいことだけど、同じ広告の世界でも写真カメラマンやコピーライター、CMディレクターといった職の人には、物事を断定的に捉える人が向いていたりします。
と僕は思っています。
なにが言いたい記事なんだ、これは・・・、おしまい。
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