「映像は情報量が多い」という主張は、現代社会において広く受け入れられ、ほぼ常識のように扱われています。さらにそれを理由に動画制作が非常に有意義である主張する論説が氾濫しています。しかし、私はこの主張には同意していません。
映像を実際につくっている身からすると、いつだっていかに情報を削るかに腐心するのが映像づくりです。情報を満タンにしてもいいことは起こりません。
さらに、この主張は必ずしも客観的な事実を反映しているとは言えず、むしろ詭弁である可能性もあります。少々辛口にチェックしていこうと思います。
1. 情報量の定義の曖昧性
映像メディアの優位性を主張する際、「情報量」という概念自体が曖昧であることが問題の根源にあります。
多様な情報形式
映像は確かに視覚、聴覚、時には触覚といった多様な感覚に訴えかけることができます。しかし、情報量をどのように定義するかによって、映像の優位性は揺らぎます。単純に「感覚に訴えかける要素の総数」と定義すれば、映像は確かに情報量が多いと言えるでしょう。しかし、情報量は単に量だけでなく、質も考慮すべきです。
情報の深さ
紙媒体や音媒体は、文章や音楽といった高度に抽象化された情報形式を通じて、より深い思考や感情を喚起することが可能です。映像は具体的なイメージを提示することで直感的な理解を促しますが、抽象的な概念や複雑な論理構造を表現するには必ずしも適していません。
2. 受容者の主観性
情報の受け取り方は、受容者によって大きく異なります。この点を考慮すると、映像の「情報量の多さ」は必ずしも普遍的な利点とはならない可能性があります。
個人の解釈
映像は、受け手の背景知識や経験、感情によって全く異なる解釈を生み出す可能性があります。同じ映像であっても、人によって得られる情報は大きく異なりえます。
情報の過剰
映像は、情報過多によってかえって重要な情報が埋もれてしまう可能性があります。視覚的な刺激に気を取られて、伝えたいメッセージの本質を見失ってしまうことも少なくありません。
3. メディアの特性
各メディアには固有の特性があり、それぞれに長所と短所があります。映像メディアの特性は、必ずしも常に有利に働くわけではありません。
情報の提示速度
映像は情報を高速で提示できますが、これが理解を妨げる可能性もあります。特に複雑な内容を短時間で理解することは、人間にとって困難です。
受動的な視聴
映像は受け手が情報を能動的に選択することが難しいという特徴があります。一方、紙媒体や音媒体は、読者や聴衆が自分のペースで情報を摂取できます。
4. 認知負荷と深い理解
映像の持つ膨大な情報量は、視聴者の認知能力に過度の負担をかける可能性があります。人間の脳には情報処理能力に限界があり、大量の視覚情報を同時に処理することは困難です。このため、重要な情報が埋没したり、見落とされたりする危険性があります。
また、映像は表層的な情報を素早く伝達することはできますが、複雑な概念や抽象的な思考を伝えるには必ずしも適していません。文字や音声メディアの方が、ゆっくりとしたペースで情報を吸収し、深く考察する機会を提供できる場合があります。
5. 想像力と創造性の制限
映像は具体的なビジュアルを提供するため、視聴者の想像力を制限する可能性があります。文学作品を読む際の豊かなイメージ形成や、ラジオドラマを聴く際の情景想像などの創造的プロセスを奪ってしまう恐れがあります。
6. 記憶の定着と文脈の理解
視覚情報の氾濫は、かえって情報の定着を妨げる可能性があります。文字で読んだり、音声で聴いたりすることで、より深く記憶に刻まれる場合もあります。
また、映像は瞬間的な情報を伝えるのに長けていますが、その背景にある文脈や歴史的な経緯を十分に説明することが難しい場合があります。文字媒体の方が、より詳細なコンテキストを提供できることがあります。
8. 解釈の多様性
映像は製作者の視点を強く反映するため、視聴者の解釈の幅を狭める可能性があります。文字や音声は、より多様な解釈の余地を残すことができます。
「映像は情報量が多い」ということは、あくまでデータとしてのビット量が多いという物理的な事実において間違っていません。
しかしPR文句として引用されている主張は、情報量の定義の曖昧さ、受容者の主観性、メディアの特性の違い、認知負荷、想像力への影響、記憶の定着度、解釈の多様性など、様々な観点から考えると、単純に映像の情報量の多さを優位性とすることが適切とは言えません。
各メディアには固有の特性があり、伝達したい内容や目的に応じて適切なメディアを選択することが重要です。時には、情報量が少ないことが逆に利点となる場合もあります。「映像は情報量が多い」という主張を無批判に受け入れるのではなく、慎重な判断が必要です。
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