数年前のことですが、私が企画したスマートフォンアプリケーションの制作を外部に発注した経験があります。この経験は、ソフトウェア開発業界の特殊性と、発注者側の責任の重要性を痛感させられる貴重な機会となりました。
プロジェクトの開始時、開発会社から「要件定義書」の作成を求められました。私は熱心に取り組み、アプリの使用シーンを可能な限り想像し、「このボタンを押したらこうなる」「この機能を使えばこういう結果が得られる」といった具合に、考えられる限りの状況を網羅しようと努めました。自分の創造力を総動員して、アプリの細部にわたるルールや仕様を定義していったのです。
期待と現実のギャップ:予想外の欠落
要件定義が完了し、開発会社から「これで制作に入ります」と言われた時は、完成品を見られる日を心待ちにしていました。予定通りの期間を経て、試作版を見せてもらった時の興奮は今でも覚えています。自分が考案したアプリが実際に動作する様子を目の当たりにし、想定通りの画面遷移を確認できたときは、言葉では表現しきれない喜びを感じました。
しかし、その喜びもつかの間、重大な問題に気づくことになりました。アプリを操作していくうちに、「ここで最初の画面に戻りたい」と思った時、画面上のどこを探しても「戻る」ボタンが見つかりません。驚いたことに、画面を前の状態に戻す機能自体が実装されていなかったのです。これは単なる見落としではなく、アプリの基本的な操作性に関わる重要な機能の欠如でした。
契約上の現実と発注者の責任
この問題を指摘すると、開発会社からは予想外の回答が返ってきました。「申し訳ありませんが、その機能は要件定義書に含まれていませんでした。ご要望の機能を追加するには、別途費用が発生します。」この言葉に、私は愕然としました。
この経験から、ソフトウェア開発における契約の厳格さと、要件定義の重要性を痛感しました。「そうか、コンピュータソフトウェアの世界では、このような厳密な受発注関係が一般的なのか」と、業界の現実を知ることとなりました。
しかし、同時に疑問も湧きました。発注者が専門知識を持たない素人である場合、どうすれば全ての可能性を予見し、完璧な要件定義を行うことができるのでしょうか?ユーザーの行動パターンや、アプリ使用中に生じる可能性のある全ての状況を事前に想定し、それらを要件として明文化することは、実質的に不可能ではないでしょうか。
予算と品質のバランス:業界の現実
この疑問について、ソフトウェア開発の専門家に相談してみました。彼らの回答は、私の経験が決して特異なものではないことを示唆するものでした。極めて限られた予算で開発を行う場合、このような問題は避けられない場合が多いとのことでした。
つまり、完璧なプロジェクト管理と、予想されるあらゆる機能の実装を望むのであれば、それに見合った相当な予算を用意する必要があるのです。専門家がプロジェクトの全過程を綿密に管理し、発注者の意図を完全に理解した上で開発を進めるには、大規模な投資が不可欠だということを学びました。
映像制作業界との類似点:予算と期待値の関係
この経験を通じて、私は自身が携わる映像制作業界との興味深い類似点に気づきました。従来の数百万円規模の予算で行われる映像制作プロジェクトでは、要件はしばしば「この商品の売り上げを伸ばすこと」や「応募者を増やすこと」といった、比較的抽象的な目標一つに集約されることがあります。
このような場合、制作過程で目標達成が困難そうだと判断された際には、制作側が自己負担で修正を行うことが一般的です。ソフトウェア開発のように「要件にないので対応できません」と言って済ませることはできません。(ただし、クライアントの要求自体が大きく変更された場合は別途対応となります。)
低予算制作の現実と課題
近年では、30万円や50万円といった比較的低予算での映像制作も珍しくなくなってきました。しかし、このような予算で質の高い制作を実現するためには、発注側と制作側の双方が、明確な要件定義と期待される成果のレベルを事前に「共有」し、合意しておく必要があります。
そのため、低予算プロジェクトにおいて、当初の合意外の追加要求があった場合には「追加予算が必要です」と申し上げることがあります。これは限られたリソースの中で最大限の成果を出すための必要不可欠な対応なのです。
発注者の皆様には、この点をぜひご理解いただきたいと思います。予算と成果物の質には密接な関係があり、限られた予算内でできることには自ずと限界があることを認識していただければ幸いです。
Comments