先週義母を見送った。
家内はひとりっ子だから、末っ子の僕にとって結婚とともに義母は僕の母になった。
午前3時10分。
とても穏やかな最期を看取り、病院からの出棺を待つあいだ、家内と義母をふたりだけにしてあげようと、病室を出て各階にひとずつある談話室へ向かった。
静まり返ったフロア。
電気が消され廊下からの明かりが差し込むその部屋で、自販機の缶コーヒーを買った。
プルトップを引くと、テーブルの上に置かれた2冊の絵本が目に入った。1冊がどんな本だったのか今ではわからないが、もう1冊のタイトルは
「100万回生きたねこ」
ああ、この本、本屋さんでよく見かける絵本だ。
猫好きの我が家ではあるけれど、僕はこの時初めて本を引き寄せ、ページを捲った。
主人公の猫は、ある王様に飼われてとても愛されているけれど、猫は実は王様のことが好きではない。ある時、戦争を率いていた王様のもとで猫が死んでしまうと、王様は嘆き悲しみ戦争をやめて国に帰ってしまう。
またある時は、泥棒の飼い猫として愛されているが、ここでも猫は飼い主が好きではない。そしてある時猫は泥棒に入った先で殺されてしまい、泥棒は悲嘆に暮れる。
このように主人公の猫は、他にもサーカスの手品師の猫であったり、船乗りの猫であったり・・・。毎回好きでもない飼い主をとっかえひっかえしながら100万回も生き死にを繰り返した。そんな不死身かつとてつもなく長い年月を生きてきた猫が、あるとき白い猫と出会い、恋をして子供が生まれ、幸福な家庭を持つと、ようやく本当の死に迎えられ、二度と生まれ変わることが無かった・・。そんなお話。
すみませんネタバラシしちゃいましたが、どうやらこの絵本、とんでもないベストセラーだったようで、どうして今まで僕は知らなかったのか!?というくらい皆さん知っているようです。
薄暗い談話室で僕は衝撃のあまり絶句しました。
今まさに義母の今際に立ち会い、彼女の来し方に想いをめぐらしている僕にこの絵本を差し出したのは、いったい誰?
この「100万回生きたねこ」は、様々な立場の人が様々な解釈で心に刻んでいる物語のようですが、僕にとってはこの本は、「死を受け入れるための本」として読みました。
世間から見たらとるに足らない人生だけれど、自分にとってささやかであっても、一瞬でも幸福な時間があったなら、それで十分その人生は幸福だったと言えるのではないか・・・。
ところで、どうしてこの絵本がここまで心に入り込んでくるのか?
それは、この絵本には「時間」が織り込まれているからではないかと思います。「悠久」という言葉がふさわしいほどの、時間の流れを感じさせる100万回の再生ののち、ほんの一瞬のように描かれる、白猫との幸福な時間(瞬間)。
その比率に、それはまるで僕らの人生のように、悠久の時代の流れのほんの一瞬に花咲いた「生」を想起させる、とても秀逸なシナリオ・構成です。
人の想像力のエネルギーを最大限に引き出して、無限の時間と世界観を描き出すこの物語は、これはどうやっても映像(映画)では太刀打ちできないものです。
映像は時間を持っている。
そのことが返って悠久を描き出すことに制約を与えてしまうからではないでしょうか。
人の人生を想うとき、想像は時間を無限に旅します。
それは映像にしてしまうと陳腐すぎます。
映像は想像を固定してしまいます。野暮なことです。
映像とはそういうものだと、僕は思っています。

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