当事者は誰なのか
広告制作に関わる関係者を大きく分ければ「発注企業」「代理店」「制作会社」です。そしてそれぞれの組織には経営者、管理職、担当者がいて、案件に責任を持っています。
客観的であろうと努力する当事者
最終的には制作物の品質は、その作品によって得られた成果で計られますが、制作過程でそれをジャッジしていくのは、それぞれの組織の担当者や上司、時に は経営者です。基本的には各自の主観を基準とするしかありません。そして、それぞれの関係者はビジネスとして制作に参加している以上、できる限り客観的であろうと努力します。
実は映像制作の営業・プロデューサーを担当してきて、いちばんの関門がこの、それぞれが「客観的であろうとする努力」です。制作に関わる関係者は、全員がそれぞれの立場において当事者であり、同時にそれぞれの分野のプロフェッショナルです。プロであるがゆえに知っている知識 や情報、経験を駆使して、他の関係者が気づかない視点(客観)から意見を云うのは、自身の存在理由です。制作物がもたらす恐れのあるリスクや不快感を、 事前に回避しようと努めるのは、まさに強い使命感があるからです。
当事者感覚こそが敵に
ところがこうして角を取り、刺を抜いた制作物は往々にして個性の無い平均的なものとなり、本来 の制作の目的を果たせないことになります。 僕は、こうした使命感を「当事者バイアス」と呼んで、制作のプロとして関係者を過度な当事者バイアスから解放するのもひとつの仕事と考えています。 実はこの当事者バイアス、制作担当者自身にもありがちで、これが一番困りものです。クリエーターはなんといっても思い込みの名人ですから。
当事者であるがゆえの客観性の喪失
Wikipediaこういう言葉を見つけました。
この中の「自己高揚バイアス」とは「個人がその自尊心の拠り所となっている分野で平均以上だと信じているために生じるバイアスである。」とあります。
僕が業務上、お客様とのコミュニケーションでたまに出会うフリクションは、この言葉で説明ができます。
お客様
「私は自分の会社の仕事においては、知見を豊富に有しているから、業務理解は制作者よりも上等である」
制作者
「自分は映像制作のプロなんだから、映像に関して私の言うこと、持っている感覚の方がお客様よりも上等である」
僕の造語「当事者バイアス」とは、自己高揚バイアスと同義だと気づきました。
意表を突かれた試写を体験
しかし最近、当事者バイアスの出現をかなりの可能性と予想していた試写の現場で、まったくそれに出会わないという経験をしました。非常に熱心に内容を作成していただいたお客様だったので、正直「これは相当に注文がつくだろうなあ」と覚悟を決めて臨んだのですが、改修指摘無し。
自分がやられていた
むしろ自己高揚バイアスに自分自身が罹っていたと言えたようです。自分がプロデューサーとしてイメージしてたスペックが、むしろ枝葉末節な部分への拘りであり、お客様が望んだ「目的達成」には、その業務上まったく問題なかったという顛末です。むしろ、よほどお客さまの方が、映像について客観的に見ていただけたのだと気付き、自身の至らなさを恥じた次第。
でもやっぱり。それが制作者の良心
かと言って、私が必要だと思ったスペックを今後は下げる、という意味ではありません。そこはもちろんお客さまの目的達成とは別な次元。当社のブランディングのためにも、絶対に曲げてはいけない(かといって押し付けてもいけない)部分として、こっそり次は達成します。
内部向け映像と外部向け
映像弊社が制作する映像コンテンツはほとんどがB to B目的ですが、その仕事は、大きく分けて2つのタイプがあります。
ひとつは、コンテンツがお客様企業内部で使用されるもの。
もうひとつが、消費者や取引先に対して使用されるものです。
前者はマニュアルや社内広報などであり、後者は商品CMや会社PR、リクルート映像などです。このふたつのうち当事者バイアスが問題になることが多いのは、後者の方です。
すなわち、B to B to CあるいはB to B to Bで使用される映像制作の仕事の場合です。
どう評価するか
我々のクライアントは納入されようとする映像コンテンツの可否、良否を評価するとき(いわゆる試写)に、社内の都合に照らし合わせるほかに、当然そのコンテンツを視聴する消費者や取引先の気持ちになって視聴しようと努力します。
このときに純粋にC(ないしはB)の気持ち、立場になることがいかに難しいかということ。その難しさをもたらす心理的なバイアスが「当事者バイアス」です。
企業映像制作の仕事は、以前から日常的にこれとの戦いなのですが、最近はこれが顕著に現れる事案が増えてきました。
WEB動画制作の現場で頻発する問題
昨今、WEBに掲載するための動画制作が増てきました。
WEB動画に共通している特徴は、ターゲットやコンバージョンがとてもセグメントされていることです。WEB動画では、企画目的、訴求目的をより効果的に達成するため、視聴対象者について非常に細かなプロフィールを設定し、その狭いターゲットを狙って、これまでの常識では広告とは思えないような制作手法や表現方法を採用します。
このことは、ターゲットにとても深い印象を与える反面、少しでもプロフィールが異なる人が見ると「なにこれ?」「なにが言いたいの?」と言われ兼ねないのです。
FOR EXAMPLE
「すでに購入意欲を持っている」
「購入価格については問題に思っていない」
「公表されている商品のスペックについては十分評価している」
「とても人生に影響のある決断なので、信頼(安心)できる取引先かどうか知りたい」
たとえばこうした条件がある場合、その購入を後押しする情報として消費者は上記以外のどんな情報が欲しいでしょう。このとき「映像」は、どんな役割を果たせるでしょう。
消費者が求める情報
更に詳細な商品スペック情報が必要でしょうか?
製造者・販売者自身の宣伝を聞きたいでしょうか?
すでに購入した人たちの体験談が聞きたいでしょうか?
購入した人が商品を使用している実際の様子を見たいでしょうか?意見を聞きたいでしょうか?
情報の真贋を問う消費者
上記のような例は、我々がネット通販で何かを購入しようとするときの消費者行動に似ています。つまり商品のスペックと価格については概ね了解している。
あとは・・・
商品が偽物ではないか?
謳い文句は本当に機能するのか?
販売者は誠実に対応するだろうか?
言うなれば、消費者が欲しい情報は「これらの情報は本当か?」という不安を払拭する情報です。不安を払拭するために映像が使われるならば、映像には次のことが求められるでしょう。
映像が・・・
・事実だけを伝えている(フィクションではない)
・PRしない
「手前味噌な情報」は信用できない
簡単にいえば「宣伝」してはいけません。
宣伝を入れないことで逆に信用してもらおうという手法が有効なのです。
こうしたことは、日常生活の中で誰もが経験があり、あなたがどう情報を取捨選択しているかと考えれば同意いただけるでしょう。
「PR動画はかくあるべき」という確証バイアス
ところが、手法がどうあれ、伝える情報がどうあれ、映像(動画)を作る目的は販売促進であり、そのための映像ツールは「PR動画」という括りに入ることは間違いありません。
そして、人はPRと聞けば「宣伝」であり、販売する者から消費者へのメッセージであるという先入観を持ちます。映像制作の企業側担当者であれば、これが入っていなければ作った意味がないのではないか?という不安に駆られます。
撮影を終え、編集された映像を初めてみて、こう思うのです「どこがPRなのだ?」
これじゃあ視聴者は何がなんだかわからないではないか?
商品の説明が無いじゃないか?
うちの会社の名前が一回も出てこないじゃないか?
「PRしないPR映像」は、ときに商品説明などしない場合もあるし、社名を出さない事で客観情報としての価値を創作することもあります。当事者をクライアントの担当者の上司や家族までに広げると、こうした齟齬はさらに拡大されます。
家族に意見を求める場合
例えばクライアントに対して試写のために提供した映像データを、担当者が家庭に持ち帰り家族に見てもらおうとします。お父さんは「お父さんの会社でPR動画を作ったんだが、どう思う?」と言って娘に動画を見てもらいます。
この時娘は、お父さんの会社が何を販売しているかよく知っていて、その特長も知っているとすると、ある限られた対象のために情報を絞って作成されたPR動画は「なんか、これじゃあお父さんの会社の商品のこと、よくわかんないよー」となります。お父さんの立場を思いやって、制作責任者・当事者になった気持ちでそう言うのです。
上司に意見を求める場合
担当者が、商品を開発している部署の上司に意見を求めれば「商品の特長はこれだけじゃない。あれが入ってない。これも入ってない。これじゃあPRにならない!」となります。この先入観・確証バイアスも「当事者バイアス」のひとつです。
娘や上司に「この動画は、もう購入動機を持っている人が視聴することを想定している」と言ったところで、そうしたアプローチでの映像がどうあるべきか、というところまでは想像が及びません。たぶん担当者自身も、この動画の手法の核心だどこにあるのか、よくわからないままに「おまかせ」で制作している場合が案外多いのです。
バイアスのかかった評価はどうすればいいのか
僕らの下には、こうした「評価」がどれも同列扱いの重さでたくさん寄せられます。
それらの評価は、クライアントから正式に伝えられた要望ですから「それはおかしい意見です」という訳にはいきません。ひとつひとつ丁寧に理由を説明して納得いただくのですが、中にはやはり「なんとかしてくれ」という場合もあり、そういう時は仕方がありません。
残念ですが普通のPR動画にリメイクするしかありません。
「感じさせる動画」は主観評価しかできない
今流行のWEB動画ですが、PRと感じさせずにアピールを「感じさせる」手法は、映像ができあがるまでどんな映像になるのかわからない部分があります。撮影時のお天気や登場する人たちの容姿や所作、コンディションでも撮り上がる映像は雰囲気が違ってくるからです。
我々制作会社もやってみなければわからないところがあります。
ただし「できる」「できない」の判断は、オリエンテーションを受けた段階で判断はつきます。訴求するテーマに嘘や誇張がなければ、目的達成は「なんとかなる!」とわかるのです。目的達成のための道筋は、時には撮影現場で変更することもあります。
被写体にインパクトがなく、言葉に嘘があれば、どう頑張っても映像は嘘っぽくなります。
だからそれが予見できる場合は、そういう企画は提案しません。
結局のところ信じてもらうしかないのが、こういうタイプの映像制作です。
視聴者がどう感じるかわからない、心配だ、不安を感じる。
上司の意見が重要だ(担当者の裁量範囲が狭い)。
こういう時は、こういう企画は避けましょう。
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