過去に4回にわたって映像(ショット)の「つなぎ方」のあれこれを紹介して、それぞれの技法がどのような効果(意味)を生むのかを説明してきました。こうして文字にしてネットに掲載する以上、ある程度社会で承認されている認識であることをネットサーフィンして調べるのですが、調べれば調べるほど混乱してきます。
映像編集用語の曖昧性と、その背景にある問題
映像編集の技術を学ぶ上で、まず突き当たる壁となるのが、用語の曖昧性です。例えば、「カットバック」という用語一つとっても、様々な定義が存在し、人によって解釈が異なることがよくあります。この曖昧さは、映像編集技法がまだ体系化されておらず、人々の感覚や経験に基づいて独自に発展してきた歴史が背景にあると考えられます。
なぜ、映像編集の用語はこれほどまでに曖昧なのでしょうか。その理由として、以下の点が挙げられます。
技法のオーバーラップ
映像編集の各技法は、明確に区別できるものではなく、多くの場合、複数の技法が複合的に用いられます。そのため、一つの用語に複数の意味が込められてしまうことが多く、定義が曖昧になりがちです。
オーソリティの不在
映像制作業界には、特に日本では、映像編集に関する学術的な研究や教育を行う機関が少なく、権威ある定義が存在しません。そのため、各映像制作者が独自の用語を定義し、使用している状況です。
業界の分断
映画、テレビ、CM、企業映像など、映像制作の分野は多岐にわたっており、それぞれの分野で独自の用語や手法が発展してきました。そのため、業界全体で共通の用語や定義を確立することが困難です。
言語化の難しさ
映像編集は、視覚的な表現を扱うため、言葉で全てを説明することが難しい側面があります。そのため、経験や感覚に基づいた暗黙の了解が、コミュニケーションの多くを占めています。
映像文化の成熟度と、学問としての映像編集
映像編集の用語が曖昧であるという事実は、日本の映像文化がまだ成熟していないことを示唆しています。例えば、米国や欧州には、映像制作に関する学術的な研究が盛んに行われており、映像編集の理論や手法が体系化されています。これに対して、日本では、映像制作は経験や感覚に基づいた職人芸的な側面が強く、理論的な裏付けが不足している傾向にあります。
なぜ、日本は映像編集の学問化が遅れているのでしょうか。その理由として、以下の点が考えられます。
実学重視の傾向
日本では、理論よりも実践を重視する傾向が強く、映像制作も例外ではありません。そのため、映像編集の技術は、現場で経験を積むことで身につけるものと考えられてきました。
業界の規模
日本の映像制作業界は、米国や欧州に比べて規模が小さく、学術的な研究に投資できる余裕がありません。
言語化の難しさ
前述したように、映像編集は、言葉で全てを説明することが難しい分野です。そのため、学問として体系化することが困難です。
映像編集の未来
映像編集の用語が曖昧であるという現状は、改善すべき点であることは間違いありません。しかし、一方で、映像編集の面白さや魅力は、この曖昧性の中にこそあるとも言えます。映像編集は、正解のない、クリエイティブな活動であり、人それぞれの感性や解釈によって、無限の可能性を秘めています。
今後、映像制作の技術はますます高度化し、多様化していくことが予想されます。それに伴い、映像編集の理論や手法も、より洗練され、体系化されていくでしょう。しかし、同時に、映像編集の根底にある、人間の感性や創造性を大切にするという精神は、決して忘れてはいけないものです。
まとめ
映像編集の用語の曖昧性は、日本の映像文化の現状を映し出す鏡と言えます。この問題を解決するためには、映像制作者だけでなく、映像教育に関わる人々、そして社会全体が、映像編集の重要性を認識し、学術的な研究や教育に力を入れる必要があります。
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