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Tomizo Jinno

映像vs.動画論議に終止符を

「映像」と「動画」という言葉は、しばしば業界内で議論の的となり、私自身も何度か書いてきましたが、そろそろとどめを刺す頃のような気がしてきました。私は「映像派」を標榜してきましたが、実際は映像も動画も同じものを指しています。両者とも連続する画像の連なりを指すという点で本質的に同じです。技術的にも、制作過程でも、視聴者の体験においても、根本的な違いはありません。「映像」は主に旧来の映像業界で使われ、より専門的なニュアンスを持ち、「動画」はデジタル時代に一般化した言葉で、よりカジュアルな印象があります。しかし、伝えたい内容や感情を視聴者に届けるという目的において、「映像」も「動画」も同じ役割を果たしています。

結局のところ、この議論は業界の慣習や個人の好みを反映しているだけで、この用語の違いにこだわるのは、旧来の「映像業界」の人が、新興の「動画業界」との立ち位置の違いを明確にすることで、自らの、何らかの優位性を誇示するもののように思います。


映像+動画=映画なんちゃって
映像+動画=映画なんちゃって

1. 歴史的背景


「映像」という言葉は、日本の映画・放送業界で長年使用されてきた伝統的な用語です。劇場映画が盛り上がり、テレビ放送が始まった1950年代から、プロフェッショナルな文脈で広く使われてきました。一方、「動画」という言葉は、デジタル技術の発展と共に普及し、特にインターネットの普及後、一般的に使用されるようになりました。

この歴史的な経緯が両者に対する印象の違いを生み出し、対立する構図を生み出しました。

「映像」はより専門的で芸術性の高いものを指すと考える人。「動画」はよりカジュアルでインターネット上のコンテンツを指すと捉える人。この印象の違いは、言葉の本質的な意味の違いというよりは、使用される文脈の違いから生まれたものです。



2. 技術的観点


技術的な観点から見ると、「映像」も「動画」も本質的に同じものを指しています。両者とも、連続する静止画像(フレーム)を高速で切り替えることで、動きの錯覚を生み出す技術を基盤としています。これは、古典的なフィルムカメラから最新のデジタルビデオカメラまで、すべての動く画像技術に共通する原理です。

フレームレート、解像度、色深度、圧縮方式など、技術的なパラメータも「映像」と「動画」で区別されるものではありません。高品質な「映像」作品も、YouTubeなどで見られる「動画」も、同じデジタル技術を用いて制作、配信されています。



3. 制作プロセス

制作プロセスの観点からも、「映像」と「動画」の間に明確な線引きをすることは困難です。プリプロダクション(企画・脚本)、プロダクション(撮影)、ポストプロダクション(編集・加工)という基本的な制作フローは、テレビ番組であれウェブ動画であれ、本質的に変わりません。

使用される機材や技術にも大きな違いはありません。プロの映像制作者が高額な機材を使用し、アマチュアがスマートフォンで撮影するという違いはありますが、これは「映像」と「動画」の区別というよりは、制作規模や目的の違いによるものです。実際、多くのプロフェッショナルな「映像」作品が、一般的に「動画」用と思われている機材(例:スマートフォン)で撮影されることもあります。



4. 表現と芸術性


「映像」という言葉がより芸術的な響きを持つと考える人もいますが、表現の質や芸術性は用語の選択によって決まるものではありません。ハリウッドの大作映画も、若いクリエイターが制作したウェブ動画も、同じように深い感動や新しい視点を提供する可能性を秘めています。

芸術性や表現力は、制作者の技術、創造性、そしてビジョンによって決まります。「映像」や「動画」という言葉の選択は、作品の質を直接的に決定づけるものではありません。



5. 視聴者の体験

一般視聴者の立場から見ると、「映像」と「動画」の区別はまったく意味をなしません。視聴者は、コンテンツの質、内容、そして自分たちにとっての価値に基づいて作品を判断します。それが「映像作品」と呼ばれるか「動画コンテンツ」と呼ばれるかは、視聴体験自体にはまったく影響を与えません。



6. メディアの融合

デジタル技術の発展により、従来の媒体の境界線が曖昧になってきています。テレビ番組はインターネットで配信され、YouTubeの動画がテレビで放送されることもあります。このようなメディアの融合が進む中で、「映像」と「動画」を厳密に区別することの意義は薄れています。



7. 言語の進化


言語は常に進化し、新しい意味や用法を獲得していきます。「動画」という言葉が一般化し、以前は「映像」と呼ばれていたものも包括するようになってきたのは、自然な言語の変化の一例です。新語の受容問題はいつの時代も論争の的ですが、この変化を否定的に捉えるのではなく、コミュニケーションの手段として言語が適応していく過程として理解するのが適当だと思います。



8. 国際的な視点

英語圏では、"video"という言葉が広く使用され、日本語の「映像」と「動画」の区別に相当するものはありません。グローバル化が進む現代において、日本語特有の微妙な言葉の使い分けにこだわることは、国際的なコミュニケーションの障害となる可能性もあります。



9. 焦点を当てるべき本質


「映像」と「動画」の区別に過度にこだわることは、クリエイティブな業界において本当に重要な課題から目をそらすことにもなりかねません。技術の革新、表現の新しい可能性、視聴者とのより深い繋がりの構築など、取り組むべき本質的な課題は数多くあります。

用語の使い分けよりも、コンテンツの質、メッセージの明確さ、視聴者への影響力など、本質的な要素に注力することが、クリエイターにとってより重要です。また、新しい技術や表現方法の探求、倫理的な配慮、多様性の尊重なども、業界が取り組むべき重要な課題です。



結論


「映像」と「動画」という言葉の使い分けは、主に歴史的な背景や使用される文脈の違いから生まれたものであり、本質的な意味の違いはないと言えます。技術、制作プロセス、表現の可能性、視聴者の体験など、あらゆる観点から見ても、両者を明確に区別することは困難です。

むしろ、この区別にこだわることで、クリエイティブな表現やコミュニケーションの可能性を狭めてしまう危険性があります。言葉の使い方は重要ですが、それ以上に重要なのは、伝えたいメッセージや感情を効果的に表現し、視聴者に届けることです。


「旧来の映像業界の人が、新興の動画業界との立ち位置の違いを明確にすることで、自らの、何らかの優位性を誇示する」


たしかに「映像派」からすると「動画派」がつくる動画は、根本的にどこか思想が違うことは私も感じるのですが、このことは一般視聴者や動画派から見ると、見分けがつかないかも知れません。言うなれば、ムービーに対する愛情の深さは動画を作る人も映像を作る人も同じだけれど、その愛し方が違うのだと思います。愛し方は競っても仕方がないことです。


この「映像・動画論議」もうやめて、中をとって、映像も動画も「映画」と呼ぶのはどうでしょう?

でも、たぶん映画業界の人が「一緒にするんじゃねえ!」と怒り出すでしょうね。


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