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Tomizo Jinno

なぜ「飾らない表現」に向かうのか ―現代日本人の美意識と映像表現の変容

「完璧」から「等身大」へ


バブル期を経験した日本社会は、かつて「完璧さ」や「理想の姿」を追い求めていました。企業PR映像でも、清潔感あふれるオフィス、きちんと整列した社員、流暢な話し方のインタビュー、洗練されたBGMなど、徹底的に演出された映像表現が好まれました。しかし、90年代後半以降のバブル崩壊による価値観の変容、さらにはSNSの普及による情報環境の変化は、私たちの「美しさ」の基準を大きく変えることになります。



SNSがもたらした「信頼性」の再定義


写真加工アプリやフィルター機能の普及により、誰もが「完璧な映像」を作れるようになった現代。皮肉なことに、それは同時に「完璧すぎる映像」への不信感を生む結果となりました。InstagramやTikTokで日常的に加工された画像や映像に触れる若い世代を中心に、むしろ「加工していない」「ありのままの」コンテンツに価値を見出す傾向が強まっています。



「わび・さび」から「地味映え」へ


日本には元来、完璧ではない姿の中に美を見出す感性がありました。茶道における「わび・さび」の美学がその代表例です。現代では、この感性が「地味映え」という新しい形で表現されています。SNSで使われ始めたこの言葉は、派手ではないが味わい深い、質素だが本質的な価値のあるものを評価する価値観を表しています。



ファッションに見る「飾らなさ」の価値


2010年代以降、ファッション界では「ノームコア」という潮流が注目されました。これは、あえて普通の、目立たない服装を選ぶスタイルです。同様の傾向は、無印良品に代表される「余計なものを削ぎ落とした」商品デザインの支持にも表れています。こうした傾向の背景には、過剰な装飾や誇張を避け、本質的な価値を重視する消費者の意識があります。



音楽における「素」の表現


音楽シーンでは、高度な編集やエフェクトを多用した楽曲よりも、「宅録」で制作された素朴な音源や、敢えてミスを残したライブ録音が支持される例が増えています。これは単なる「手作り感」への憧れではなく、その音楽や演奏者の「正直な姿」を求める聴衆の欲求の表れと考えられます。



文学における「私小説」の現代的解釈


近年、SNSやブログに端を発する「実体験」を基にした文学作品が注目を集めています。これは、フィクションよりもノンフィクション、創作よりもドキュメンタリーを好む現代の嗜好と合致しています。かつての私小説が作家の内面を赤裸々に描いたように、現代の「実体験文学」は飾らない言葉で現実を描くことで読者の共感を得ています。



企業映像制作における「飾らなさ」の意味


このような社会的文脈の中で、企業映像制作における「飾らなさ」とは何を意味するのでしょうか。それは単に「作り込まない」ということではありません。むしろ、以下のような要素を丁寧に扱うことを意味します:

  • 現場で働く人々の等身大の姿

  • 失敗や試行錯誤を含むプロセスの開示

  • 地域や環境との具体的な関わり

  • 製品やサービスが生まれる背景にあるストーリー



「信頼」を築く映像表現とは


完璧に演出された映像は、むしろ視聴者に「何かを隠しているのではないか」という疑念を抱かせる可能性があります。一方、適度な「粗さ」や「隙」のある映像は、企業の誠実さや透明性を印象づけることができます。

ただし、これは単に「素人っぽく撮る」ということではありません。むしろ、高い技術力を持ちながら、あえて「飾らない表現」を選択できる判断力が、映像制作者には求められています。



情報過多時代の「本質」への回帰


スマートフォンの普及により、誰もが日常的に大量の映像コンテンツに触れる時代となりました。その中で、視聴者は直感的に「真摯な表現」と「作られた表現」を見分けられるようになっています。企業映像に求められているのは、技術や演出で視聴者を「魅了する」ことではなく、企業の本質的な価値を「伝える」ことなのです。



これからの映像制作に求められること


「飾らない表現」は、決して「手を抜く」ことではありません。むしろ、以下のような要素により多くの注力が必要になります:

  • 撮影対象との信頼関係の構築

  • 本質的な価値を見出す洞察力

  • 必要最小限の演出を見極める判断力

  • 視聴者の知性を信頼する姿勢

企業の映像制作において「飾らない表現」を選択することは、現代社会における新しい価値観への応答であり、同時に、人々の本質的なコミュニケーション欲求に応える試みでもあります。


地味な女

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