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「」に対する検索結果が431件見つかりました

  • 映像を企画するときの条件設定の四大要素

    その1・企画のテーマ(何を伝えるのか) その2・視聴環境(媒体と対象) その3・期待度(予算とコンバージョン) その4・プロジェクトの管理方法(承認と決済) B2Bの映像制作について、我々映像制作プロダクションが案件の受注を検討する場合、大きく言ってこの4つの要素を見極めるところから始まります。これらの情報が明確にされているか、バランスがとれているかどうかを、その案件の実現性を見極める判断材料にしています。動画制作のご発注を検討されている担当者の方に、参考にしていただけると幸いです。 その1・企画のテーマ 案件の軸脚になる要素なので「明確」であること。 明確でありさえすればテーマは何でもOK、不可能はありません!(と思う・・・) その2・視聴環境 高速インターネットが普及する以前は、映像ソフトの視聴(ないしは拡散、流通)は「①テレビ放送」か、展示会やイベント、セミナーなど一定に囲われた場所での「②放映映像」、そしてVHSテープやDVDといった「③メディア配布」がその役割を担っていました。 それが今ではインターネットのYouTubeなどの動画共有サイトやFacebook、TwitterなどのSNSに載せた④WEB動画がほぼ主流となっています。 テレビ放送(代表例:スポットCM)の場合、視聴者は完全に受け身(HDDレコーダーによるCM飛ばし視聴は別)で、視聴は予期せぬうちに始まり、チャンネルを替えるか目をそらさない限り強制的に視聴させられます。視聴者数はあっという間に数十万、数百万人を達成しますが、15秒、30秒という短いコンテンツで伝えられるメッセージはひとつかふたつしか無理です。放送時間帯によって大まかな視聴者層の選別は可能ですが、概ね一般対象となります。効果を生むほどの出稿は相当の予算が必要です。 放映映像の場合、視聴者は予め動機を持ってその場所に来ています。見本市などの多業者によるブース展示の場合は、ある程度「アテンション」は重要ですが、コンテンツには「より深い情報」「分かりやすい説明」が必要となります。着席で視聴する場合は、ある程度じっくり長尺モノもOKです。しかし、できるだけ端的にまとめ上げることも大切です。 メディア配布による場合も無作為にばら撒くのではなく、多くの場合一定のプロフィールを持ったターゲットに配布するので、コンテンツに含まれる情報量は多め、深度は深めに設定する必要があります。ただし、まず再生装置に挿入してもらうための動機付けの仕掛けも重要です。 WEB動画の場合が問題 WEBで動画を視聴する機会は多種多様な流れが考えられ、掲載する場所や拡散方法によって様々な視聴環境を設定することが可能だからです。 ・自社のサーバにアップして、ホームページを訪れた人だけが視聴する ・YouTubeに掲載の上、自社のサイトに埋め込む ・動画共有サイトに掲載の上、SNSやネット広告を使って拡散する ・広告であることを悟られないコンテンツとして拡散する などなど 漠然と「WEB動画をつくりたい」とは考えても、その掲載方法をどうするかまでは考えていない場合も多いと思います。大きく分けて、ただ動画データを自社のホームページで視聴できるようにしたいだけなのか、何らかの方法で拡散して視聴機会を拡大したいのかは考えておいて下さい。 その3・期待度 制作、公開する動画コンテンツによって何を達成したいのか。視聴者数、再生回数さえ多ければいい、ということは少ないと思います。ターゲットに届いているか?それをどうやって測るのか?は難しい課題ですが、「何をしてこのプロジェクトは成功した」と言うのかを示していただけると、企画も立てやすくなります。 また我々広告業者はクライアントの「期待度」は、そのプロジェクトに投じられる予算からも読み取ります。やはり「期待されている仕事に関わりたい」と願うのは、我々も人の子ですのでお許し下さい。 その4・プロジェクトの管理方法 クライアント企業の組織形態や決済システム、案件のプロジェクト体制は企画工程、制作工程における打合せ工数、提出書類の量、種類、制作期間に大きな影響を与えます。意思決定や承認、決済のプロセスが多くなればなるほど制作予算は膨れ上がっていきます。その場合、実質的なクリエイティブ作業とは違う次元(コミュニケーションプロセス)での費用の方が大きいと言っても過言ではありません。 制作会社において、この部分はプロデューサーが長年の経験で、直感的に判断している面もあり、正直に言えば大企業やワンマン経営企業の発注の場合は、コミュニケーションプロセスが格段に多く、その係数がどうしても大きくなります。 参考になりましたでしょうか。 請け負う側が何を生意気に!と思わないでくださいね。 受発注の相互が共通感覚を持ってプロジェクトを推進できることが、何ごとによらず大成功の秘訣ではないでしょうか。まずは、案件に関するお考えをお聞かせ下さい。

  • 空耳ナレーション

    この度、とってもショッキングなことがありました。 先日、MA(映像に音声をつけるスタジオ作業)スタジオでナレーションの録音を行い、ミックスダウンを含め10分の映像の音つけ作業を目論見通りの時間で終えました。   で、自社に音声データを持ち帰り映像に貼りあわせる作業をしていると・・ ギョッ! ナレーションの読みが間違っているではないか! 具体的には「先ほど」が「先こど」、「後ほど」が「後こど」に聞こえるのだ。 「おかしい・・・」 スタジオではオペレーター、ディレクターはもちろん、クライント、代理店合わせて合計6人の人間が、何度も聞いて確認したはずなのだ。   映像ビジネス30年、こんな経験は初めて。 中でも僕は非常に細かいことに気付く性格で、この手の間違いには確実に気付いてきたはず。それがスタジオを出るまで気付かないとは・・・。 かなりのショックである。 「俺も耄碌したか・・・」   MAミキサーも すぐさまMAスタジオの担当者に電話してチェックしてもらうと 「確かに『先こど』って言ってますね」 「僕もこういう経験は初めてです」 とのこと。   ディレクターも さらに同じく音声データを持ち帰ったディレクターに電話してみると、すで聞いたようで 「びっくりしたんですけど、読み間違えています」と開口一番。   いやー、こんなことってあるのか? リテイクの相談もあり、ナレーターの所属事務所に連絡してみると、 「(マイクを吹かないよう)破裂音を抑えようとして、そういうことが起こることがある」と教えてくれました。   ナレーターさんを責めるつもりは全くありません。やはり何がショックかと言ったら、この明らかに別な言葉に聞こえる音を見逃した(聞き逃した)自分です。   人の喋りというのは普通、ネイティブの言語に関しては文脈で予想しながら聞いているので、少々子音が聞き取れ無くても、母音とイントネーション、アクセントで意味を理解できてしまいます。翻って、人はあまり厳密に音声のひとつひとつを聞いているわけではないのです。むしろ予想した通りの音に聞いてしまう(聞きたい音に聞こえてしまう)傾向さえあります。   しかし、プロはそれではいかんでしょう。 この道のプロならば、これは気付かなければいけません。 ということで、今回は自戒の意味を込めて、こういうことがあった、ということを告白、記しておきます。 ちなみに、この録音の顛末はどうなったか?クライアントに連絡すると・・・   「え? 神野さん、考えすぎですよ〜。」 「ちゃんと『先ほど』に聞こえますって!」 「え、ほんと?」   でリテイクなし、と相成りました。 僕って気にしすぎ!?

  • オーラはカメラに写らない

    映像屋は精神論を避ける 映像(ムービー)屋の多くは創作物に関する精神論的な論議に水を差すのが好きです。 なぜか。    人の内面(精神)はカメラに映らない と考えるから。 そもそもこの論議から平行線は始まります。 写真カメラマンや紙面デザイナー系の演出家は、映像制作の打ち合わせの席でも割と日常的にこれ(精神論)を論じます。僕らと違って映像にそれが映ると考えているようなのです。ムービー業界も本編映画関係者はそう考えている人が多いように思います。 平面には精神論は描きこめる たしかに、時間軸が無い(瞬間)の平面では1点の写真に+見出し+本文で「精神」(哲学的に捉えた無形の価値観?)を封じ込めることができます。 時には文章なし、1点の写真だけで精神を感じとらせることさえできます。 けれども、それは写真という媒体が、見る側の恣意に任せてそこにいつまででもあるという特性をもつからです。そのページや紙面を開いている限り、その写真は逃げては行きません。じっくり観察できます。 ムービーは時間の中で感じとる ところが、ムービーのワンカットはほんの数秒から、十数秒が関の山。で消えていきます。もちろん1カットを長々と見せるのは創作としてアリですが、一定のリズムで進行しているムービーの中に「ここは精神を感じてもらいたいから30秒ワンカットで行こう」なんて手は、よほどの事情がない限り使えません。音楽やナレーションによって映像に情報が付加され、次の瞬間には別な情報をもたらす映像に切り替わるムービーというのは、視聴者が1カットを咀嚼解釈する時間を与えず、連続性やストーリーの中で「精神」を感じ取ってもらえるように演出されることがほとんどです。    少し話が逸れましたので戻します。    映像に感情は写りません。 心の中で泣いている笑顔というものがあるとすれば、「泣」の表情がその笑顔にカタチとなって現れていなければ、ただの笑顔です。例えば目が潤んでいるなど、具体的な陰りが見てとれれば、視聴者の多くは「心で泣いている笑顔」として認識するでしょう。 ところが、人間の表情というのは内面(精神)をカタチに表すとは限ら無いし、カタチにしたところでカメラでは捉えきれ無いような小さな差異しか表出しないから、それがカタチになるほどの表情というのは、舞台演出のようでリアリティが無い・・・と現代の多くのムービー屋は考えます。    流れの中に意図を盛り込むムービー 多くのムービーの場合、目が潤んでいるとか口が歪んでいるという表情を演者にさせなくても、シナリオの流れやカット割りによって、視聴者が「笑っているけれど、ここは心で泣いているよね」と感じるように仕組みます。    ひとつの精神を表すのにはけっこうたくさん時間が要る そして、その情感や価値観は1本のムービーの中に、そう多くは盛り込め無いものでもあります。現実の人間は非常に複雑で矛盾した感情や意見を持つものですが、映像作品を作り上げようとするとき、往往にしてそこをリアルにシナリオ化、映像化してしまうと、あまりに普遍的で平坦な人間像となり、何が言いたいムービーだかわからなくなってしまうからです。 矛盾しているけれど真実 現代はリアリティが大事と書きながら、なんだか矛盾していますが、表現物というものは本質的に、現実通りでは芸も何も無いものになってしまうもので、やはりムービー作品も、現実を恣意的に切り取ってデフォルメしたものであることは変わりないのです。 壮大な虚構はいいが、ディテールはリアルに、という物語系創作物の大原則はここにも生きているんですね。 「はじめから言ってね」  だからね、ムービーの場合、そこから感じ取ってもらいたい精神は、1カット、1シーンの映像で表しているわけではなく、全体を通して醸し出そうとしているわけなので、「こういう面もある」「ああいう面もある」という風に精神演出を追加したいと言われると、全体を全部組み替えるほどの労力が要るので、ならば初めから言ってね、ということであります。

  • 「会社は学校じゃないんだぞ!」

    4年以上前に書いた文章が出てきた。読み返してみると、随分時代は進化したし、更に新型コロナウィルス渦によって、人心は更に変化したように思う。書いた当時は巷の思想をズバリ言い当てていたように思ったけれど、今ではもう古くなった感じ。若者たちはもっと強かになった。 【2016年1月28日記】 「会社は学校じゃないんだぞ!」昔よく耳にしましたが、どうも僕は勘違いしていたようです。これ一般的には「会社は社員に(仕事のやり方とかを)教える義務はない」という風に理解されているようですね? これだったら、社会で賛否両論出ること僕も納得できます。 会社が社員に仕事の仕方を教えることを面倒がるのは、ちょっと怠慢というか、映像制作会社が新人に自社の仕事の仕方を教えないんじゃ、プロダクションとしてのアイデンティティが確立できません。 子どもの特権 さて、僕がどう勘違いしていたかというと・・・。 学校(義務教育)というのは、子供が周り(先生、学校、家庭、社会)に対して、一方的に与えられること(成長する。生きる。)を主張することが許されるところだ。と僕は考えていました。 子供は自分の成長のためならば、無尽蔵に知識を要求していいし、スポーツをできる環境を求めていい。子供の未来のためには、喧嘩をして人を傷つけても一度くらいは「ごめんね」で許してあげてもいいし、少々法に触れたことをしても更生を期待して執行猶予をあげてもいい・・・。 一方的な要求の権利と非行に関する処罰の猶予。 うまくできなくても、なにかをしなくても、まわりが待ってくれる。それを社会全体で負担する。これぞ子供の特権だと。 会社も学校? 「会社は学校ではない」という言葉を思い出したのは、SMAPの解散騒動で、いろんな人の発言がネット上を賑わせていて、その中に「自分たちが育てた子どもたちが、立派に自分の生き方を見つけ自立する。これは、嬉しいことであるはずなのに・・・。」という記事に多くのひとが「いいね!」しているのを見て「え?所属タレントは子供なの?」と思ったことがきっかけでした。 タレントプロダクションという会社は、無価値であった人に芸をつけて、営業して、多く関係者が情熱を注ぎ込み、ブランディングして「スター」という世に一つしかない商材を創り出します。普通の会社設備と違うところは、それが人間という生身で感情を持っていること。だから会社はとても気を使い、気分よく働く環境と潤沢な経済と引き換えにします。これがタレント(会社)とプロダクション(社員)の「契約」です。これは、大人の社会の常識だと思うのですが、違うでしょうか。タレントは自分ひとりの力でスターになったのでしょうか!?マネージャーは会社の看板なしに力を発揮できたでしょうか? 会社が投資して設備した資産である「スター」を手放すということは、会計上でみれば本人に対する無形資産の無償譲渡となり、特別損失として計上する類の損金です。ただ、今の日本の会計上は人(スター)に関する「のれん」を無形資産として計上する方法は無いと思うので、現実的には決算書に載ることはないでしょう。 価値の無償譲渡は税金掛かる まぎれもない営利会社であるタレントプロダクションが、自社の資産であるタレントを無償譲渡(特別損失)しなくてはならない理由はなんでしょう?しかも、本人の譲渡益には課税されない・・・。 日本における世間一般の感覚では、ひとえにそれは、その資産が人という自我を持っていることに由来するでしょう。しかし、会社にとっては経済活動におけるりっぱな損失です。株主がいれば、その事態を容認した経営者は賠償請求されるかもしれない一大事です。それを「本人たちの意思だから」で片付けられる問題として考えるのは、甘くないですか? 「自分たちが育てた子どもたち? が卒業していく・・・嬉しいことであるはずなのに・・・。」という考え方は、社員は子供であり、まさに会社は学校と同じであるという発想に基づいています。ちょっと待ってください。社員は子供ではありません、りっぱな大人のつもりで雇っています経営者は。本人も大人としての待遇求めているわけですから。 どうも組織というものは自分に対して一方的に奉仕するもの、一方的に権利を主張する対象と勘違いしている人が多い。これも「甘い」! 組織に対する自分の貢献以上に見返りを要求するのは、会社であろうと社会であろうとフェアではない。それは経営者と社員という間での公平感だけでなく、社員間における不公平にもなる。ここが大きい。事情がある社員だけに重点配分することはできない。 「会社は学校ではない」 という意味を、ここまでの文脈に置き換えれば「社員は子供ではない」ということです。 親が扶養義務を負う子供からあれこれ奪われるのは、当事者同士の問題ですが、会社の雇用関係は大人の契約であり、しかも日本では労働三法によって多くの権利が守られています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【2020年6月22日記】 読み返してみると、最後のあたり、今の若者は自覚していますよね。

  • 被写体のチカラ・映像のチカラ

    天才カメラマン? ある会員制リゾートホテルのプロモーションビデオを撮影している時のことです。 自分のデジカメで「出待ち」している外国人モデルのスナップをパチリと撮ってみると、「あれ?僕って写真うまいじゃん」なんて自惚れてしまうほど、ファッション雑誌の写真と見紛う写真が撮れました。 特にポーズをつけたわけでも、背景を工夫したわけでもありません。 ただ被写体はモデルさんですから、美しさに関してはお顔もスタイルも申し分ありませんし、金髪というのは画面を華やかにします。モデルの彼女はどの角度からでも、どんな表情でも、どんな仕草でも美しかったし、背景は出来たばかりのリゾートホテルですから余計な色や物といった「破綻」は一切ありませんでした。 何も考えずに撮った写真がカッコよかった、その理由は? 映像プロデューサーとは言え、カメラマンとしては素人ですから、その写真がカッコよかったのは、99%被写体(背景含む)自体がもつチカラに違い無いのです。 被写体自体がもともと持っているチカラ 実は映像のチカラ(表現力、アピール、メッセージ・・・)というのは、事ほど左様に概ね被写体自体がもともと持っているチカラに負っている事が多いのです。 プロのカメラマンは現場であれこれと苦労して「イイ絵」を撮ろうとするわけですし、僕ら映像制作会社が最も予算を掛ける作業のひとつが「撮影」であることは紛れもありません。 しかし、もともとチカラを持っている被写体であれば、だいたい誰が撮ってもカッコイイのだということを、我々は告白しなくてはなりません。これホントです。 ただ、数%はデキ不デキに違いがあるし、1枚の写真だけならいいかも知れませんが、広告表現として他の映像との脈略、関連性、連続性と整合をとるという技は、やはりプロでないとできないので僕らはプロカメラマンを起用しますし、セットや照明、スタイリングにも十分なコスト、スタッフ、時間を割きます。 被写体がよければ誰が撮ってもかなりイイ 同様に被写体が金髪モデルでなくても、例えば有名な世界遺産であったり、有名アーチストの完成されたオブジェであったり、といった対象物であっても、その事物が予め持っているプレステージ(先入観、知識、評価・・・)が偉大であったり、造形に破綻が無いという理由で、それを撮影した写真や映像は、どう撮っても見る人に美しく、圧倒的なチカラを発揮するのです。 ただし、勘違いしてはいけない いくら「有名」でも、例えば「タレント」や「スター」であっても、タレント性やスター性は目に見えないものだから、カメラには映らないことです。その人のタレント性やスター性を知らない視聴者にとっては、何のチカラも発揮しません。例えば日本で有名なコメディアンが出演するCMも、異国で上映したら、それは凡庸な人が映っている映像に過ぎません。 映像制作会社のチカラ 我々映像制作会社の本当のチカラは被写体がチカラを持たないもの(ローカル?無名?カッコよくない・・・?)であっても、それを企画力や創作力でオモシロイもの、カッコイイもの見せるところにあると思いますが、あなたはどう思いますか? 金髪外国人女性モデルの「チカラ」には、我々日本人(男子)がもつ「先入観」も影響しているかも・・・。

  • デザインは人格

    僕は映像プロデューサー(兼プランナー・シナリオライター)であってデザイナーではありません。デザイン業務は基本的にプロデザイナーにお願いしています。その上で本題です。    デザインはデザイナーの分身 カタチが有っても無くても、プロとして何かを創作する人から産み出されたプロダクツは、その人の人格そのもの、あるいは分身だと僕は思います。広告だけでなく、家具職人や小説家だってそうではないでしょうか。 だから、僕はプロのデザイナーが創作したデザインについて公の場所で批判することはしたくありません。もちろん家族や親しい仲間との会話であれば、ざっくばらんに感想をぶつけることはあります。しかし、個人のブログやFBであったとしても、第三者がそれを目にする可能性があるサイトにはそういうことは書きません。 それはそれを作った人の人格を否定することに等しいような気がするし、そうした言葉は当事者が読むことが無くても、その人に共感する人の心を傷つけるからです。    批判は有名税か? 有名な人だから有名税だ、という人もいるけれど、好きで有名になったわけでない人もいるし、僕のように鶏よりも小さな心臓の持ち主だっています。 けれども、こんな僕だって自分が紡ぎだした文章や、制作した映像は心から愛しているし、それらは僕の分身だと思っています。だから、どんな人からだって中傷を受ければ傷つきます。    仕事と遊びは別 ただし、真剣に作っていないもの、遊び半分で作ったようなもの、すなわちプロ意識をもたずにつくったものは除外していいのではないでしょうか。 それらには、その人の魂が込められているわけではないですから。魂が入っていない、すなわちその人の分身ではないのだから、たぶん誹謗するようなことを言ったところで「これ、ちゃちゃっと遊びで作ったからさ」と逃げ口上を言うだけでしょう。すなわち自分の仕事を愛していない、真剣に取り組んでいない証拠です。逆に見れば、自分が精魂込めて創りだしたものをけなされたら、どんな厚顔な人だって、誰だって大いに傷つき墜ち込むのです。プロだから傷つけていい、なんて理屈ってあるのでしょうか。    簡単に作ったことを自慢する人がいます ですが、クライアントにお金を頂戴してクリエイティブな仕事をする場合には、そう簡単にすべての事柄をクリアした作品を産み出すなんてことはできません。通常、クライアントが要望する条件というのは、紙に書かれていなくても、言葉で言われなくても、業界常識、ビジネス習慣、マーケティングデータなど、配慮しなくてはならない項目がゴマンとあります。そういう事情にすべて配慮できるのも、数多くの抽斗を持っているプロだからです。 素人が、ちゃちゃっと作って上がり、とうものとはわけ(背景)が違います。    いただいた仕事に心を込める 僕らは作品には愛着があるし、責任を感じます。仕事に対する姿勢がそのまま作品に現れるのか?と言えばそうでない場合もあります。でも、真剣に取り組んだ「いい仕事」は必ずお客様や視聴者に喜んでいただけると信じています。    プロの仕事には文句を付けない主義 ところで僕は、自分がキャスティングしたプロ(スタッフ)の仕事には文句を付けないことにしています。あれこれ指図して不本意な仕事をさせるのは無礼と思います。ただし、もちろんお客様には満足いただけるものに仕立てます。 だから「注文」はつけます。

  • 動画の尺・映像の時間・ムービーの長さ

    ちなみに動画、映像、ムービー、どれも同じことを言っています。(いろんなキーワード検索に対応してみました。)    動画はせいぜい3分まで 最近映像制作に関してご相談いただくと、まず決まって「動画はせいぜい3分まで」とか言われます。「5分あったらまず途中で視聴をやめる」とも。   それって本当でしょうか 本当に動画は数分まででないといけないのでしょうか? それってYouTubeやニコ動での視聴が念頭になっていませんか?    目的が異なることを1本の映像で満たそうとしている 「展示会やセミナーで見せます。」ついでに「YouTubeにも上げようと思います。」と言われることがしばしば。    一定の視聴動機がある人たちを対象とした映像 例えば展示会やセミナーと言うのは、公道の通りすがりや、デパートの催事ではなく、その企業や業種に興味を持った人が集まる場所です。そういう場所で放映する映像ならば、すでに一定の視聴動機がある人たちを対象としていると言えます。だからその紹介動画、広告映像を視聴する人は、その商品やサービスに関する「情報をもう少し深く知りたい」と思っている人たちです。    無関係な人たちの中から万が一の視聴者に見てもらう いっぽうYouTubeでその動画を目にする人たちは、ほとんどが会社も業務も無関係な人たち。その中でほんの0.◯%の人がいくらか関係性を想像して再生ボタンを押し視聴するだけです。「あ、これ関係ないや」と思った瞬間、離脱するのは当たり前。万が一(!?)最後まで見てくれる人がいたら、その人こそがターゲットだったと考えていいと思います。途中離脱した人たちは、もともと興味が無いけれど、ちょっと面白そうなところまでは観た、にすぎません。    視聴離脱防止策は意味あるのか? そう考えると、一定の視聴動機を持っている人たちに向けて、「つかみだけの短尺動画」を観せて、その人たちは満足するでしょうか?情報が欲しくて観たのにイメージCMのような映像から何を読み取るのでしょう?途中離脱させないために、本来伝えたい情報とは無関係な演出で離脱を食い止めることに、意味があるのでしょうか。    長尺だって恐れることはない もちろん、つまらない構成で長々と説明する映像はよくありませんが、一定以上の動機を持って集まっている人たちに見せる映像は、通り一遍のキーワードを羅列した短尺動画ではなく、きちんとした情報を提供できるコンテンツであるべきだと、僕は考えます。    YouTube 専用にCMを打ちたいという場合 長尺だって恐れることはありません。視聴動機の浅さ深さや対象のプロフィールに合わせてシナリオ設計すれば、絶対に最後まで見てくれます。見てくれるようアイデアを練り込むことが、僕たちシナリオライターの仕事なのですから。    そんなことありません 映像制作業者が「動画は3分までです!」と言い切る人がいたら、「私はそれ以上の尺で視聴者をつなぎとめる動画をつくる自信はありません」という意味かも知れませんね。 あ、ちょっとイヤミが入っちゃったかな!?

  • 映像制作にとってのドローンとは

    おっ!これは空撮に使える!? 5年くらい前だったか、それを初めて目にしたのは、海外に滞在する友人のFacebookだったと思う。職業柄すぐに「これで空撮できたら画期的だよな」と、直感的に思った記憶があります。当時はクワッドコプターと呼ばれていたように思います。 瞬く間に空撮業者が乱立 やがて日本に入ってきた時には、しっかりムービーカメラが搭載されていました。みんな考えることは一緒です。WEB上には海外で制作されたドローンのダイナミックな映像が数多く投稿されていましたから、それを観て「おお、スゴイ」と感激していると、国内でも1,2年前からドローンを使った空撮を請け負う会社が次々とできてきました。 様々なリスクを考えて近寄らず 僕も一瞬は頭をよぎった「ドローン空撮を仕事にする」という考えですが、すぐに様々な課題やリスクが頭に浮かび、実現する方向には向かいませんでした。 いちばん大きな課題は、やはり危険性をどう回避するか。いちばんは人を傷つけるという危険性ですが、建物や構造物、特に電線に衝突させた場合の賠償問題も大きな障害です。B2Bの映像制作を行う私たちは、必ず発注者である企業や担当者の方の命によって動いているという立場があり、ひとたび事故が起これば施主さんに多大なるご迷惑をお掛けすることになります。なによりも、すぐに法律の網がかかって仕事に制約が生じると思ったのが、いちばんの理由でした。 危険性を感じない状況でのドローン映像は面白くないというジレンマ 危険性を回避するということは、ドローンという機材の特性上、「おもしろい映像の撮影はなるべくしない」というジレンマとの戦いにもなります。 ドローンでの撮影の醍醐味とは、ヘリコプターやセスナではできない空撮(を安価に)ができるというところですが、地面すれすれとか、被写体すれすれの移動ショットが撮れないならば、いくら空撮映像であってもそうおもしろい絵にはならないのです。 地面すれすれ、頭上ギリギリの撮影は当然危険を伴いますので、いくら操縦の技量があっても危険を冒すわけにはいきません。 超広角レンズならではの大きな制約 さらにドローン撮影では視聴者が画面の揺れをなるべく感じないように、カメラにはずいぶんな広角レンズを装着しますから、被写体と距離があると、ちっとも面白くありません。逆にスピード感を持って被写体に急激に近づき、離れていくような絵は非常にダイナミックです。 建物や野山の空撮はすぐに飽きてしまう 結局撮影できるのは、建物の外観であったり、畑や野山ということになり、学術的な利用ならばともかく、シナリオ、ストーリーがある映像作品の素材としては数秒から数十秒が使える程度です。 ドローン撮影は少々高くてもちゃんとした会社に頼む その辺をよく知っているドローン撮影業者さんは、実に周到な体制を整えて、可能な限りおもしろい絵を撮ってくれます。 まずは小型で安価なドローンでテスト撮影を行ってアタリをつけた上で、本格的プロ用のドローンで撮影。しかも、本番用の機材は必ずもう1台以上バックアップを準備して臨む。もちろん様々な免責事項や保険についても、周到な説明を行った上で、しっかりと契約書を交わします。安全上リスクが高い条件や、天候などで飛べない時は、はっきり「飛べません」と断ります。 勢い、数十万円から百万単位の予算が必要になりますが、業務として請け負う以上、こうした体制や契約書は大切だと思います。 タダより高いものは無い 最近ではドローン撮影を請け負う業者も乱立気味で、おもしろそうなイベントが予定されていると、お仕掛け営業で「タダでいいから撮らせて欲しい」と言うそうです。そうした時は、きちんと責任や著作権関係を契約書にして、肖像権やプライバシーについても事後に問題にならないように、注意が必要です。万が一、事故を起こした時の責任の所在は最低限、明確にしておくべきでしょう。

  • 企業映像制作におけるCG・コンピュータグラフィックス

    商品カットは今やオールCG 商品のCMには「商品カット」という映像が大概入っています。店頭で見つけてもらい易いよう、商品あるいは梱包の色形、特徴を視聴者の目に焼き付けてもらうことが目的です。 ですから、この商品のカタチや表面は完璧なディテールを持っていなければならないし、汚れや傷は言語道断です。 実物を撮影したのではあり得ない完璧さ しかし、生(実物)の商品というのは、なかなかそう完璧であることは難しい。昨今はハイビジョンはあたりまえ、4Kなんていう解像度で見たら、大方の商品の表面には凹みや汚れがあるものだから、これらがバッチリ映ってしまいます。 そこで今では商品カットはほとんど3DCGで作られています。 どうしてCGを使うのか もちろん完璧なまでの、いや完璧すぎて不自然なほどの表現力を持っている今のCGですが、制作会社がこれを使いたがるのには、他にも理由があります。 撮影するのが面倒、ないしは難しい、リスクが高い。 クライアントにNGを食らうことが無いから安心。 商品カットだけスタジオで別撮りする時間やコストが、CGで制作する時間、コストよりも大きい。 生撮影ではあり得ないシチュエーションや角度で見せられる。 などなど。 テレビCMやWeb上の自動車もほとんどCG 民放テレビでは、車のコマーシャルがたくさん放送されていますが、よく見ると殆どの車は3DCGで描かれています。まるで本物と見紛う動きで、視聴者はそれがCGであることが気付かないほどの完成度です。 でも映像を仕事にしている人なら、大方は判別可能です。 CGとホンモノ映像の見分け方 まったく本物に見えてしまったら、CGで作る必要が無いからです。なんだか矛盾した話ですが、CGクリエーターは当然、できるだけ本物に見えるディテールや動きを作りこみますが、そもそも何故そのシーンをCGで制作しているのかを考えてみてください。本物を撮影したのでは作り出せない映像を制作したいからです。 プロが見ているポイントは別にある 「作り出せない」というのは、背景の世界観であったり、車の動き方であったり、撮影可能か不可なのか、といった条件を自身の経験に基づいて判断するわけです。必ずしも画像品質の出来不出来が判断材料ではありません。本物では制作不能の映像を作ってしまうから、映像制作会社のプロが見ればCGだとわかるわけです。 ウチコミ音楽にも似た映像世界 僕は昭和世代で、バンドでベースを弾いていた人間なんですが、今のウチコミの演奏にどうしてもノリキレないのに似ています。 生を収録した映像の質感を知っている人間からすると、CGの映像は完璧過ぎて味わいが無い。「表現」としてはやはり深みが無いんじゃないかと。お金も時間もリスクも厭わないならば、絶対にロケしたいものです。ロケが無理ならスタジオ。やはりホンモノの質感が伝えるシズル感を捉え、映像化してこそプロ中のプロなんだと僕は思ってしまう人間です。 「でも、そのうち完璧に自然に見せるCGができるんじゃない?」かって? うーん・・・。AIで「ゆらぎ」を織り込めれば可能かもしれない。

  • 映像制作費の税務

    会計士さんに聞きました 企業が発注する映像制作費に関して、発注者側の会計処理はどうなるのでしょう。 現在一般的に行われている会計処理では、その金額が10万円以内(中小企業の場合30万円までの特例あり)、あるいはその映像の使用期間が年度内であることが明確であれば、その年の経費(広告宣伝費、研修費、福利厚生費など)として処理します。そして使用期間がその年度を越えて使用される場合は、「会社のPR用映画フィルムは、そのフィルムによるPR効果が期待できる期間中は継続的に使用されるものですから減耗資産ではなく、通常の減価償却資産として耐用年数2年で償却すべきもの」ということになっています。 (国税庁・関連ページ) https://www.nta.go.jp/law/shitsugi/hojin/04/05.htm https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/hojin/5461.htm https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/hojin/5403.htm ※このページが古い可能性がありますので、必ず自身で最新の情報を取得してください。 カウントされているのはソフトウェアではない ここで気になるのが、映像が「映画フィルム(スライドを含む。)、磁気テープ及びレコード」という「器具及び備品」に含まれて分類されていると解釈できるところ。つまり長年にわたって鑑賞に耐える映像作品であっても、せいぜい2年で償却されてしまう資産でしか無い。いわんや現実的には、ほとんどの人が映像制作費は経費であり資産だとは思っていないようです。 時代が流れても陳腐化しない映像づくり モノゴトの遷ろいが早くなり数週間、数ヶ月で情報が陳腐化してしまうのも当り前の時代ですが、私たちは永くその企業の価値や、商品のイメージに貢献し続ける映像づくりをしたいと考えています。 経費としての映像づくり、資産としての映像づくり、どちらも力いっぱいお手伝いさせていただきます。決算を前に経費を使いたい方、大歓迎です(笑) カタチがない仕事の宿命? 映像という無形のモノ(?)の価値評価は客観的な指標があいまいで、税務に関わるひとの多くは十把一絡げで広告宣伝費(単年度経費)で処理していることが多いようです。その結果、税務署から「2年で償却しろ」とか修正申告を求められる場合があるようです。 先の記事でも書きましたが、僕は「映像作品」は「資産」であると考えたい人間です。ですから、単年度で一括経費として計上される、つまり1年足らずで陳腐化すると考えられるのはちょっと残念な思いがします。 「プログラム」は償却資産 ご存知と思いますが、「ホームページ」というコンテンツは「どんどん更新される」という理由で、単年度で処理していいようですが、そこに組み込まれたコンピュータソフトやデータベースなどは、年をまたいで使用されるため、最長5年での償却になります。 では、そこ(WEB)に掲載する目的で作成した動画(映像)コンテンツはどうなるのか? 企業がその映像を使って営業活動を行なっていれば、その期間(最長5年)に分けて経費処理するというのが、おおかたの税理士のお考えです。 ※劇場用映画、販売用DVD、テレビ番組などは収益を得られる期間が長期間に亘るため、別な方法で償却期間が様々に設定されるようです。なお、税務当局の指針は会計士でも判断が分かれるものがあり、また通達等も随時更新されますので、現在の会計ルールはご自身で必ずご確認下さい。

  • 音と映像の幸福な関係

    動画だって音は大事! インターネット上では有名無名の動画作家が挙って自信の作品をアップしています。しかし、ほとんどの動画作品の「音」の扱いが粗っぽいことが残念でなり ません。パソコンやスマホで動画を再生する時、そもそも音を消して観ているユーザーが多いので「どうせ聴いてないから」ということでしょうか。でもプロと アマの違いが大きく表れるのが、この音の扱いではないでしょうか。  以下、思いつくままに僕が考える音と映像の関係を書きます。    (1)無音でも成立している映像は、効果的な音楽を付けるとさらに輝く (2)音楽を付けてようやく見易くなる映像は、そもそも映像としては退屈 (3)音楽は映像の邪魔をしてはいけない    ※ミュージックビデオを除く (4)音楽は映像を補完するのではなく増幅するもの    ※音楽で映像の意味を替える、という演出の場合は除く (5)ナレーション(インタビュー)がある時は音楽の音量をしっかり下げる (7)映像に対して切れ間なく音楽をあてず、時には生音や静寂を挿入する (8)無闇に効果音が入った映像は構成の単調さを誤魔化している (9)短編だからと言って、単調な音楽1曲で通すことはやめよう (10)音楽だって編集しよう    イントロ、エンディングは起(承転)結に大切な要素なのだから是非生かそう    サウンドトラックの重要さ 音楽だけでなく、サウンドトラックの様々な音声に細かく気を使うようになると、自ずと映像の構成も工夫をするようになるはずです。  誰でも初めて映像を編集した時に、音楽を付けることで印象がガラッと変わることを経験すると思いますが、音楽に頼って映像を仕上げるのではなく、音付けは編集後の楽しみに取っておくといいと思います。  僕ら職業映像屋にとっても、MAスタジオで音が付いて映像に輝きが加わる瞬間は、何度経験してもとても幸福な時間です。  あ、付け足しですが、お金をいただいて映像を作るならば、編集(音付け)時のサウンドモニターはイヤホンで済まさず、完成前には必ずいくつかのタイプの スピーカーでチェックしてください。視聴環境は様々ですから。また、同録(撮影と同時に生声を収録する)の場合は、マイクは必ずオン(近く置く)にしてく ださい。オフで拾った生声は使い物になりません。

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